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 「話し合い」とか「討論」って、どういうものだか皆さんは分かっていますか?

 このふたつは似ているようで、厳密には違うものです。

 まず、「話し合い」。
 「話し合い」は、とにかくお互いおだやかに言いたいことを言い合って、すっきりした上で「じゃあ、こうしよう」と決める、そんなニュアンスがありますよね? 昔ながらのムラの「寄り合い」というのはこんな感じで、たくさんの人たちがかわるがわる、本来話し合う議題には特に関係ない話であっても誰もとがめることもなく、淡々と長い話が続いていたそうです。昔「忘れられた日本人」(宮本常一著)という本で読んだことがあります。

 いっぽう、「討論」。
 「討論」といえば、何かの問題について「賛成」「反対」の立場から意見を「戦わせる」という感じですよね?

  「相手の意見のここが間違っている」「それはこういう理由だからだ」「自分の意見は正しい」「なぜならこういうわけだからだ」とにかく、自分の意見が正しいという根拠を並べ、相手の意見が間違っているという根拠を並べ、お互いに相手を負かすべく格闘する。もちろん、スポーツマンシップにのっとり、です。どちらが勝っても負けても恨みっこなしよ、という前提でやるわけです。
 民主主義や自由な言論を表すときに引かれる代表的な言葉、「私はきみの意見には反対だが、きみが意見を言う権利は全力で守る」には、そんな背景があったりします。

 ただし、こうしたやり方には欠点がひとつある。なんだと思いますか?

 「時間がかかる」ということです。
 話し合いにしろ、討論にしろ、お互い納得するか、またはある程度お互いが譲れる結論を導き出すには、本当に時間がかかります。
 おたがいが真剣に考えていればいるほど、ほんっとうに時間がかかるものなのです。

 いわんや、皆さんたちのように、「話し合い」「討論」をいままさに勉強している最中の小中学生ともなると、慣れていないがゆえにさらに時間がかかるでしょう。脳の糖分が切れない限り(苦笑)、何時間も結論の出ない議論をえんえんと続けることになりかねません。

 「え~、時間のムダじゃん」と思いますか?

 とんでもない!

 実はこれこそが、「ザ・民主主義」と言ってもいいのです。

 私たちはしばしば、話し合いがこじれて物事がなかなか決まらないことにいらだったり、面倒くさがったりしますが、そこで考えてほしいのは、「では、話し合いなしにパッパッと物事が決まる」というのはどういうことか?ということなんです。

 それは、単純に言えば、「英雄または独裁者がなんでもやってくれる状態」
 ただし、英雄または独裁者が決めることが私たちにとっても良いことかどうかは、私たちには決められません。悪いことが決められても、私たちには止めることができません。たとえ自分の頭の上に爆弾が降ってきかねない戦争であっても、です。

 学校の活動で練習している「話し合い」「議論」を、一見試験科目と関係ないと思っていい加減にやっていると、本当に自分の身に必要な大切な場面であっても何も自分の意見を言えない、自分の意見がぜんぜんない、持てない、ということになりかねません。
 十代のうちは、借り物でもいい。受け売りでもいい。とにかく、意見らしいものを他人に対して述べる訓練をしておきましょう、これって家族の対話でも必要なことですから。
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2014.02.07 Fri l 図書館 l COM(2) TB(0) l top ▲

コメント

本日のレファレンス
はじめまして。
小学6年生の意見作文の授業で
話し合いで戦争はなくせるか?

話し合えば解決するか?

「悪い人」と話し合いは成立するか?
という裏づけに、
・昔悪かったけれど更正した人 を
紹介して欲しいのオーダーが入り
山下泰裕やヤンキー先生などを
色々検索していたらこちらの文章が気になりました。

「悪い人」?「正義の人」?で考えていたのですが
「討論」と「話し合い」の思考もありですね。

意見や価値観の合わない「悪い人」と
話し合うことで、社会(自分の正義)の方が
生きづらさを見直すこともある…とかいう方向性。
相手を説得する面ばかりを考えていました。

正直、論私自身に論理思考の訓練が足りていないので
小学生の課題に今、一緒に取り組んでいる
状態です。
2014.09.17 Wed l simizu. URL l 編集
Re: 本日のレファレンス
滅多に更新しないブログにご訪問いただきありがとうございます。

私は(出来は悪かったですが)法学部出身なので、ロジカルな思考について多少は親和性があるのかもしれません。立花隆の「ロッキード裁判批判を斬る」などは愛読書でしたし。

それはさておき、私は教諭ではないので批判ではないのですが、「話し合いで戦争はなくせるか?」という問題設定はかなり大雑把なように感じます。

そもそも「戦争がなぜ起きたか」という直接的な原因の多くは「話し合いが決裂したから」なので(苦笑)、歴史から読み取れる事実認識は「止められる場合も止められない場合もある」というほかありません。

では、止められた場合というのはどんな場合か?
止められなかったのはどんな戦争か?

そこから「問題の切り分け」という、論理的思考の初歩の作業が始まるのだと思います。

小学生や中学生の討論や話し合いがしばしばかみ合わず堂々巡りになるのは、この「問題の切り分け」という作業について何にも学んでいないし訓練もしていないからでしょう。

私は職業柄、いわゆる図書委員会の話し合いには必ず出席しますが、毎回こういう堂々巡りには出くわします。

大きな問題を細かい問題点に分け、それらをきちんと区別して論じ、またその細かい問題点の相互連関もちゃんと論じる、これは実は優しそうで難しいことです。

先生ご自身がその勘所をしっかり身につけておかないと、子どもたちの論理の飛躍に引きずられてしまうかもしれません。
2014.09.17 Wed l keep9. URL l 編集

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